tender memory

いっぱい食べるあにがすき。

破れた絵本を演じるにーちゃんの考察【前編】

こんばんは。まほろばです。

ツアー始まりましたね!
福岡の初日がなんとか終わったようで安心するなどしました。最後まで頑張って欲しい!
ノックソさんの愛知復活も楽しみにしています。
ツアー、参加したいと思いつつも東京はもう取れなさそうね…リセールは毎日見よう。

はてさて。本題。
今日は最近連日上がっていた「Maze No.9 ストーリー」について。
このストーリー、本人たちの過去や今とリンクしていて新規ファンの私でもめちゃくちゃ泣ける感じだったし昔の曲を根性で探して聴き直すいい機会。

特に野崎さん編はばちくそ泣きました。
なんだろなー、曲との親和性がめちゃくちゃ良かったんですよね。
野崎さんと煎じさんの演技も良かった。
私の中で、野崎さんと煎じさんの2人って「なきゃいけない声」の2人なんですよね。
声の響き方がほかのメンバーと少し違うというか、アクセントとしての響きを持ってるイメージがあります。あくまで私の感想ですが。
(そして他の人がいらない訳でもない)
非常にぐいぐい刺さる声をしていて、ストーリーも良くて、曲も良かったら泣いちゃうよね。無理でしたね。嗚咽レベルで泣いたの久々でした。

ただね、私的に一番衝撃を受けたのが表題なんですよね。気まぐれプリンスさん編のにーちゃん演じる破れた絵本。
これ、本当に凄かった。めちゃくちゃ良かった。
というわけで、この記事は相変わらず褒め殺しヲタクタイプの私がにーちゃん演じる破れた絵本をめちゃくちゃ褒め倒します。
あと自分語りも大いに入ります。どうしても書き残しておきたかったんです…
ウザイかもしれないので苦手だと思う方はUターンをば。

あとネタバレしかないので⚠️
見てないひとはまず見て!ぜひ!👇

見ました?
これから書くのは、この破れた絵本がどうすごいと感じたかの話。

少しだけ自分語りします。
私は元々、舞台をやっていた人間です。
といっても、自分が出る側ではなくて書く・演出する側の人間で、今でもたまに公演をやっています。
キャパ100にも満たない小さな劇場の公演ばかりですが、熱い信念や想いを持っている、ある意味で譲れないものが「演劇」であったりします。
そして、この演目のにーちゃんの演技を見た瞬間、にーちゃんを推しと呼ぶファンとしての私じゃなく、演出をする側・作る側の私として、にーちゃんというひとりの俳優を見ていました。
あの瞬間、破れた絵本の彼はアイドルではなく、俳優だったと感じています。

そもそもアイドルと俳優に区分が必要なのか?という話ですが。
アイドルファンとして、またはエンターテインメントを楽しむだけなら別にいらんと思います。
私はにーちゃんの演技を特別に感じたけど、それはあくまで彼の演技"だけ"が凄いから特別で印象に残った、というわけではないです。
ありがたいことに、公式様より全員分のMazeのストーリーがあがったので、全員分、見させていただきました。

前述の通り、野崎さん編は大号泣でした。フォーゲルさん編の気まプリさん、歌声で光を感じたのはあれが初めてで本当に揺さぶられました。
白服さん編のゲルさん、動きが絶妙によかった。
とみたけさん編の野崎さんはやっぱり声の説得力が凄かった。
ここに上げてない人も含め、どれも本当に楽しませていただきました。ありがたい。

私はMazeツアーの時はまだMesemoa.を知らなかったので詳しく分かりませんが、繋ぎ方を見る限り、曲目と曲目のMCのような扱いであの演劇が挟まっていると推測しています。
そんな、身体的にも精神的にもキツい演目であれだけ楽しませてもらえる。それに、アイドルも俳優も関係ない。すごい。
本当にMesemoa.ってすごいな…

なので、私の中でにーちゃんが俳優になった、 というのは、"私という人間の中において物凄いことなんだ"と思ってくれたら嬉しい。です。
前置き長いね…すいません。

さて。
一番最初に「え、まじ?この人この瞬間にこの声出せるの?」って驚いたのは、妖精さんの紙飛行機を受け取って「よく分からんけど俺が連れ戻すから!」というニュアンスのセリフ。
これは全メンバーのストーリーで絶対入るセリフでした。
このセリフ、本当に難しいものだったと思います。なんせ直前まで妖精さんに引っ掻き回されてアドリブ満載の展開から、急に脚本の世界観に入り込むセリフですから。
違和感がどうしても出てしまうんですよね。

演技の方法としては、大きく分けて2つの選択肢がありました。
1つめは、あくまで会話の延長を装い自然に言う。もう1つは、思いきって感情を乗せて言う。
前者は直前の空気感を壊さない自然な【演技】という違和感を乗り越えられるか、後者は即興で出来た空気感をぶっ壊してしまうことでどうしても少し白けてしまう空気をどう処理するか。
メンバーそれぞれのキャラクターで縛られる部分もありますね。
分かりやすい例でいうと、二番煎じさんは前者、とみたけさんは後者だと思われます。
このお二方はそれぞれ自分のキャラクターとセリフを馴染ませるのが上手だった印象です。

では、にーちゃんはどれを選択したのか。
あくまで推測ですが、後者の感情を乗せる方を選択していたかと思います。
感情をたっぷり乗せながらもセリフの本人らしさを活かした、実に絶妙なバランスだったように感じました。
特に、この人とんでもねぇ選択をしたな…と感じたのは「ぷんちゃんがMesemoa.のこと忘れた?」と「そんなの悲しすぎるよ」という二つのセリフを言うとき。前者の問いかけを、ほかのメンバーに向けて発するという部分です。
「悲しすぎる」という哀の感情に直結する言葉ではなく、その前にある「信じたくない出来事(ぷんちゃんがMesemoa.のことを忘れる)」にぎゅぅっと哀しみを含め、メンバーに投げかける。
投げかけられたメンバーはその出来事を自分の中で咀嚼することになります。
そして、それぞれの心の中にそれぞれの感情が芽吹いたところで、ぽつりと「そんなの悲しすぎるよ」と落とす。
「悲しすぎるよね」という同意を求める響きではなく、にーちゃん自身が、自分がメンバーに向けて発した言葉を聞いてあたらめて咀嚼し、自分で傷付いて溢れた「悲しい」の感情。
そのセリフの音を聞いた瞬間、本気で震えました。
この人とんでもなく上手い…って。

演劇は対話で出来ています。
セリフを音で発するとき、どこに何を向けているのかを把握し、人の感情を直接的、あるいは間接的に動かすことで物語は進んでいきます。
発する側のセリフに乗った感情は、いつでも誰かに向いているわけではない。
相手に向いていたり、自分に向いていたり、はたまた客席に向いていたり、どこにも向いていなかったりします。
そして受け取る側もまた、必ず受け取るわけでもなければ乗った感情をそのまま受け取るだけでもない。そこのズレや増幅を用いて、演劇というものが作られている。という持論。
これらが出来る人というのはなかなか少ないと感じていて、私は一演劇の人間として、これができる俳優が大好きです。
なので、私はこの瞬間、にーちゃんのことを「俳優」として見始めました。

まさかMesemoa.にここまで出来る人がいるとは正直思ってなかったです。舞台ではなく、ライブ中の演目だからなおさら。
てか、舞台ならみんなやってると思う。まだMesemoa.メンバーの舞台は観れていないのでU-NEXTで観るつもりです。
てかMazeのストーリーを視聴して、俄然観る気になりました。たのしみ。

次に良いなと思ったのは、本編に移ってすぐ。
破れた絵本として、ぷんちゃん先生が子どもと話しているのを後ろから見守るシーンですね。
ここに関しては本当に、導入の自然さと作りこみの繊細さが凄かった。
後半のMCスタート直後、衣裳に着替えて出てきてみんなにいじられ、しっかり茶推しとして振る舞い、笑いを起こして場を温めてしまうパワー。
ちなみに、ここのにーちゃんは野崎さんに微笑みかけられてめっちゃ嬉しそうなのがマジでかわいいので見てほしい。
あと煎じさんのイケボには興味なさそうなのもウケる。

そんな温めシーンの即興めいた空気感から、ぷんちゃん先生の動きを見て「ぷんちゃんは真面目だなぁ…」という言葉だけで世界に引っ張り込んでくるから、にーちゃんは凄いんですよ。
Mesemoa.のにーちゃんではなく、破れた絵本のにーちゃんとしてそこに存在している。それを自然かつ一瞬で作り上げている。
これに関しては、どうやってるかの解説ができません。こっちが聞きたい。
強いて言うなら、直前の温めシーンから場の空気を引っ張っているのがにーちゃんだからかな。
いじるための材料をちりばめてメンバーに拾ってもらい、想定通りにいじってもらってツッコミを返す。
これだけでにーちゃんがリードを掴んでいる気がします。

そして、ぷんちゃん先生が子どもと対峙する場面できちんとその場に在ること。
ぷんちゃん先生のことを見てセリフを聞いているだけではなく、子どもが言っているであろうセリフや動作にも反応しているのが分かります。
泣いている子どもを心配そうに見たり、子どもが差し出した破れた折り紙を見て「あらら」と少し残念そうにしたりとか。
「しゃきっと!」っていうのを聞いて自分もちょっと背筋を伸ばしたり、旧ボイスの秘密道具に「旧じゃ分からんだろ」と首を傾げたりとか。

貼り合された折り紙を見て「よかった」と微笑み、元に戻らないという指摘に「だよね」と少し寂しげな顔をした後、ぷんちゃん先生のセリフで思わぬところから救われるんです。
破れた折り紙と自分を重ねていたことに気が付き、そしてそれを救ってくれた【Mesemoa.のことを忘れたぷんちゃん先生】を見て、改めて「Mesemoa.のことを思い出してもらわないと」と心に誓っているように見えます。
【気まぐれプリンスさんが保育士をしている】という大枠よりさらに一歩踏み込んで演技をすることで、破れた絵本がにーちゃんでなければいけない理由がどんどん増えていくんですね。
もちろんセリフで示唆されているのですが、それ以上に観客側の無意識に働きかける力はあったと思います。
そのあとも、じゃんけんでぷんちゃん先生が勝ってるのを見て「大人げなっ」て反応をしたり、白服さんの言葉に「しーっ!」ってしたりと、周囲のアクトに対しても反応の取捨選択を丁寧に行っているなと感じました。

そして読み聞かせのがやがやシーンの一喝。
パワーですねwwwさすがwww
これは本人が、自分のキャラクターを理解して活かしてやっているな~と。
Mesemoa.のにーちゃんというツッコミキャラとして、メタ的に蹴散らしているから面白いし、ウケてもストーリーが崩れていない。
即興のトークレベルまでやっちゃうとこの後の導入の難易度が上がりますが、そこまではいかないのがいい塩梅です。

一喝して無理やりガヤを蹴散らしたあと、半ば強制的にストーリーテラーとして物語を本筋に戻すところ。
ここもすごくよくて、ストーリーの外側のメンバーとして演じているときの声のトーンを使ってましたね。
だから観客は、にーちゃんのセリフを外側のメンバーのトーンとして認識し、自然に「ああ戻るんだな」と勝手にお話の中に戻ってきてくれる。
それを上手く活かしていました。

 

そしてここの一瞬が最強だった。
「裾を掴んで言ってきた」というセリフを言い終わり、すっとエプロンの裾を掴むために前かがみになり、起き上がった瞬間には「子ども」と認識させる雰囲気に変わっている。
観客というのは凄い存在で、舞台装置が何もなくても「ここは南の島!」と言えば南の島として見てくれるし、夜だといえばただ薄暗いだけでも夜だと思って見てくれます。
偽物でも本物だと思い込もうとしてくれる。
なので「子どもが裾を掴んで言ってきた」の言葉だけで、次のシーンで観客はにーちゃんのことを子どもとして見ることになります。
そういう風に補完してくれるから。

でも、あの一瞬、にーちゃんは確かに「子ども」になっていたんですよ。
補完を通り越して、そこにいると認識させるくらいに。裾を掴んで起き上がり、目を合わせるあの瞬間だけで。
これは私がそう感じただけではないと思っています。
動画を見る限り、観客の皆さんがそれを理解し驚いたからセリフを言う前に声が上がっているんじゃないかなって。

正直、子どもの演技はめちゃくちゃ難しいわけではありません。子どもというテンプレは割とやりやすい部類に入ります。
現に、この後あおいくんが子どものセリフをやっていてそれは子どもとして認識出来るトーンだったし、きちんと成立していました。
じゃあ、ここのにーちゃんの何が凄いのか。
それは、破れた絵本のにーちゃん→Mesemoa.のにーちゃんというツッコミキャラ→ストーリーテラーとしてのにーちゃん→子どものにーちゃんという4つの役割を完璧にやり分け、バラバラにせず成立させているところなんですよ。
長い時間の中でやり分けるのは難しくないですが、短い時間の中でやり分けすべて成立させるには、それらの役割を意識的でも無意識でも認識していないと出来ないはず。だからすごい。
個人的には意識的にやっているのかなと感じているんですが、どうだったのかぜひ聞きたい部分だなと思ってます。
あと普通に、子どもの振る舞いしているにーちゃんめちゃかわいい。

絵本を書くぷんちゃん先生を覗きこむ顔が、描き歌い始めた内容を見て一瞬で破れた絵本に戻ります。
ここもしびれる。一瞬一瞬がこまやかです。
まず自分の中で驚いている瞬間を観客にも見せることで感情を共有し、次にぷんちゃん先生を覗きこむ。そして周りのメンバーを見る。
自分の中で感情の流れがないとできないなと感じます。

そしてまたストーリーテラーに戻るんですが、ここではすでに若干の切なさを持ち合わせています。
ぷんちゃん先生のなかに残る残滓を見たことで動く感情を、ストーリーテラーとして語ると同時に破れた絵本として発していく。
ここではまだ、BGM含めて若干の希望が垣間見えます。それは、ぷんちゃん先生の中に残るMesemoa.の残滓を信じることができる=絵本が成立しているから。
意外と戻ってこられるのかもしれないな~なんて空気感になっていたりして。

個人的にこれは大きな違いだなと感じているのが、破れた絵本が発する言葉にぷんちゃん先生はあまり反応してないんですよね。会話していない。 そしてにーちゃん編では、とみたけさん演じる英語辞典と会話をしていないように見えます。
白服さん編・二番煎じさん編・あおいくん編では、それぞれ犬と猫とインコと会話をしているし、野崎弁当さん編・フォーゲルさん編・とみたけさん編では、それぞれ御守りときれかけの電球とギターケースと意思が通じている。
でもにーちゃんだけは、会話にはなっていない。あくまで一方通行。これは意図的なのかたまたまなのか…

そして絵本が完成し読み出した瞬間から、希望は不安に変わっていきます。
残滓だと信じていた感情が、実は無意識であったこと。自分が描いたものに戸惑う姿を見て、にーちゃんの表情が変化していくのがよく見えます。
そして破れてしまうシーン。まるで殴られるかのような動きを見せるのが悲しいし、それがぴったりはまっているのもいい。
にーちゃんは元々そういう動きのハメをするのが上手い人という印象なんでいいのは当たり前かなと思いつつ…

特に注目すべきは、【無意識であった】という部分です。
破られる前に動作の準備はするものの、にーちゃん自身の表情や動きにぷんちゃん先生を止める様子がない。
演じる側って脚本を読んでて自分が破られると分かっているから、破られる前に何らかのアクトを仕込みたくなります。破られたくないのに破られてしまうのって悲しいじゃないですか。そう見せたくなる。
でも。破る側が無意識ということは、破られる側もその様子に気付かないということになるはずなんですよね。
無意識で自分を破る存在。さっき、二つに破れてしまった折り紙に自分を重ね合わせたにーちゃんにとっては、これはとても痛い一撃になるなって。救ってくれた存在に急に傷つけられる感覚。
その感情を「無意識だった」「ぷんちゃん」という短いセリフだけで表してしまう。あくまで、スパイスレベルの想いとして。

えーと、ここまで書いて6000文字を超えてしまったので前後編に分けます…
自分でもここまで書くと思ってなくてびっくり。

ではではまた…!